AI書房
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[AI書房] 第1章 2024年12月3日の夜、派閥でなく国を選ぶ
韓東勲が韓国に残したこれまでの痕跡
第1章 2024年12月3日の夜、派閥でなく国を選ぶ
金京鎮
2024年12月3日の夜、韓東勲の前には二つの道がありました。一方には20年間を一緒に歩んだ人がいて、もう一方には大韓民国がありました。近い人の側に立てば、自身は安全だったでしょう。沈黙するか、知らないふりをするか、一晩待つだけですむ話でした。
韓東勲は近い人ではなく大韓民国を選びました。自分の味方でない国が不幸になることを、たった一時間も容認しませんでした。国会へ駆けつけ、18名の議員を率いて採決の場に立ち、190票の満場一致で戒厳解除を実現させました。恩義を背いたのではありません。恩義より大きなものを守ったのです。自分の味方ではなく国を優先に考える人、個人の安泰ではなく5千万国民の明日を優先に案じる人です。
このような言葉もよく聞きます。国会議席の過半数を民主党が占めていたのだから、韓東勲が出なくても戒厳解除の採決は行われたはずだという主張です。
数字だけで見れば、もっともらしく聞こえます。しかし、あの夜の現実は数字とは違いました。
1 数字があっても人がいなければ採決はありません
戒厳解除には国会現職議員の過半数の出席と採決が必要です。民主党が過半数議席を有していたことは事実です。しかし、議席数と本会議場に座っている人数は異なります。戒厳軍が国会を封鎖したのは、まさにその人たちが本会議場に入るのを防ぐためでした。
国会周辺は軍人と警察に包囲されていました。議員たちが国会に到着しても、中に入ることができない状況でした。議席数がいくら多くても、本会議場に入ることができなければ意味がありません。
2 あの夜、誰がいて誰がいなかったのか
民主党の李在明代表は国会内の林の中に隠れていました。野党の代表が国民の前に出て、戒厳に立ち向かう姿を示すことができませんでした。革新新党の李準錫代表は警察の封鎖を理由に国会に来ませんでした。平素から戒厳令の可能性を何度も提起して警告していた民主党の金民錫議員は、地域区がヨンドゥンポで国会に最も近い場所であるにもかかわらず、国会に現れませんでした。
危機が襲いかかれば、平素の言葉ではなく、その瞬間の行動がその人の本当の姿です。
3 韓東勲は何をしたのか
韓東勲代表は戒厳の報せに接するや否や動きました。
第一に、即座に「違法的な緊急戒厳、国民とともに阻止する」というメッセージを発しました。与党の代表が自分の党に所属する大統領の戒厳に正面から反対したのです。このメッセージはリアルタイムで全国に広がりました。国民は力を得、戒厳勢力は大きな混乱に陥りました。与党さえが背を向けたという事実が、戒厳の正当性を根こそぎ揺り動かしたのです。
第二に、軍人たちに違法戒厳に参加するなというメッセージを継続して発しました。これは戒厳軍の士気と結束を内側から崩す行動でした。現場の軍人たちの立場では、与党の代表さえが違法だと言う戒厳に命をかける理由がなくなったのです。
第三に、緊急最高委員会を召集し、議員たちとともに警察の阻止線を突破して国会本会議場に進入しました。この場面は全国にリアルタイムで放映されました。与党の代表が自分の党の大統領の戒厳に立ち向かい、警察の阻止を突破して国会に入る姿。その場面が雰囲気を完全に逆転させました。躊躇していた議員たちが国会へ向かい、国民は勝つことができるという確信を得たのです。
4 サッカーに例えましょう
私たちのチームに選手が11名いるのだから、誰が欠けても試合はしたはずだと言うことができます。しかし後半戦の最後の5分、1対0で負けているときに同点ゴールを入れた選手に「お前がいなくても他の選手が入れたはずだ」と言う人はいません。決定的な瞬間に決定的な行動をした人の価値は、その場にいたという事実それ自体だけでも意味があります。
韓東勲がしたことは、単に一票を足したのではありません。与党の代表が大統領に背を向け、憲法の側に立ったという事実、それが戒厳解除の決定的な雰囲気を作ったのです。民主党が過半数だったから戒厳が解除されたのではありません。与野党がともに立ち上がったから戒厳が解除されたのです。そしてその「ともに」を作った人が韓東勲でした。
5 韓東勲が立ち上がらなかったなら
もし韓東勲が沈黙していたら、どうなっていたでしょう。与党が大統領の側に立っていたら、どうなっていたでしょう。
戒厳は与党対野党の争いになったでしょう。軍と警察は大統領と与党の指示に従ったでしょう。国会の封鎖はさらに強硬になったはずで、議員たちの本会議場への進入ははるかに難しくなったでしょう。戒厳解除が遅延するほど、流血の衝突の可能性は高まったでしょう。
民主党が多数党だったことは事実です。しかし、あの夜戒厳を阻止したのは議席数ではありませんでした。憲法を守るという意志、危険を冒して国会へ駆けつけた行動、自分の味方ではなく国の側に立つという決断。それが戒厳を阻止したのです。
そしてその決断の最初の信号を発した人が韓東勲でした。
この質問に答えるには、あの夜尹錫悅が実際にどのように行動したかを見なければなりません。
1 与野党の満場一致を前にしても踏ん張りました
2024年12月4日の午前1時1分。国会本会議で緊急戒厳解除要求決議案が、出席議員190名中賛成190名で、満場一致で可決されました。野党議員はもちろん、国民の力議員18名が軍の封鎖を突破して本会議場に進入し、採決に参加した結果でした。憲法第77条第5項は明らかです。国会が過半数の賛成で解除を要求すれば、大統領はこれを解除しなければなりません。
ところが尹錫悅は即座に戒厳を解除しませんでした。午前2時から4時の間、彼は龍山国防部庁舎地下の掩体、いわゆる決心室を訪問して、軍首脳部と対策を協議しました。与野党が一つにまとまった満場一致の議決を前にしても、3時間以上踏ん張ったのです。国会採決から3時間26分経った午前4時27分にようやく談話を通じて解除決定を発表しました。その3時間半の間、軍兵力の撤収は遅延され、全国は緊張状態に置かれていました。
2 民主党単独議決だったら
与野党の満場一致を前にしても、3時間半踏ん張った人です。
もし与党議員が欠け、民主党議員だけで戒厳解除案が通過していたなら、尹錫悅には踏ん張る名分が生まれます。
「反国家勢力に掌握された野党の政治的動きだ。与党は同意しなかった。国会の真の合意ではない。」
このような論理を掲げて戒厳解除を拒否するか、はるかに長く遅延させた可能性が大きいです。単に拒否権を行使するのを超えて、軍を継続的に動員しながら野党議員に対する逮捕作戦を強行した可能性もあります。与野党の満場一致を前にしても午前4時27分まで決心室に閉じこもっていた人が、野党単独議決を前に素直に退いたはずがありません。
3 時間は戒厳勢力の味方でした
戒厳が長引くほど有利なのは戒厳を宣言した側です。時間が経てば軍兵力が追加配置され、通信統制が強化され、核心人物に対する逮捕が進行します。尹錫悅が午前1時1分の採決後も3時間半も時間を引き延ばしたのは、まさにこのためです。
野党単独議決だったなら、その3時間半は6時間になったかもしれず、12時間になったかもしれません。戒厳が翌日の朝まで続いていたなら、国会前と大統領室前で大規模な衝突が起こったはずで、大韓民国は取り返しのつかない道へ進んだでしょう。
4 190という数字の意味
民主党単独議決は法的に有効です。過半数出席に過半数賛成で足りります。しかし、あの夜に必要だったのは法的有効性だけではありませんでした。
軍人に銃を下ろさせる力。決心室に閉じこもった尹錫悅が、もはや踏ん張ることができなくさせる力。国民に「これは終わった」という確信を与える力。それが必要だったのです。
190名の満場一致。与党と野党の区別なく、大韓民国国会全体が一声で「この戒厳は違憲である」と宣言したこと。その重みは軍首脳部さえ「もはや支えられない」と判断させた実質的な政治的終結でした。与党さえが背を向けた、大義名分なき戒厳。その認識が軍と国民の両方にしっかり刻み込まれたのです。
野党単独議決でも戒厳は解除されたはずだと言うのは、結果だけを見て過程を無視することです。あの夜明けは1分1秒が国民の安全と直結した時間でした。韓東勲が作り出した与野党の満場一致は、戒厳を最も速く、最も確実に、最も安全に終わらせた方法でした。
そしてそれが午前4時27分という、それでもなお最も早い時間に終わることができた理由なのです。