[AI書房] 第8章 政党を渡り歩く — 自由党、新進党、そして自民党
ガラスの天井を越えて
第2部 登場 — 当選と放浪
第8章 政党を渡り歩く — 自由党、新進党、そして自民党
金京鎮
1993年秋、国会議事堂周辺の木々が赤く染まる頃、初当選の議員バッジを手にしたばかりの高市早苗は、選択の岐路に立っていました。8月の総選挙で奈良県全県区から無所属で出馬し、トップ当選を果たした彼女にとって、どの政党に身を置くべきかを決める時が来ていました。
当時の日本政治は歴史的な転換点にありました。1955年の結党以来、38年間にわたり一度も政権を譲ったことのなかった自民党が、1993年7月の選挙で過半数議席を失いました。細川護熙を総理とする8党連立内閣が発足。戦後日本政治の「55年体制」がついに揺らぎ始めていたのです。
新しい政治を求める有権者の声が高まっていました。政治改革、金権政治の打破、小選挙区制の導入。その流れに乗って「新党さきがけ」が結成され、高市にも合流の打診がありました。しかし、彼女はさきがけの公認を拒否しました。理由は明快でした。さきがけは自民党出身の議員たちが作った党だったからです。自民党の色を脱ぎ捨てられぬまま改革を語ることは、彼女の目には説得力を欠くものに映りました。
無所属で国会に入った高市は、1年間独自に活動しました。議員会館で政策を学び、各政党の動きを注視しました。
1994年春、チャンスが訪れました。柿澤弘治という名の外務大臣経験者の議員が自民党を離れ、新党を立ち上げようとしていました。柿澤は自民党内のリベラル派でした。経済自由化、中道路線、政治改革。その構想に共感した議員が集まりました。山田宏、太田誠一、新井将敬、佐藤静雄といった自民党出身の議員たち、そして無所属の高市。彼らが共に「自由党」を結党しました。「柿澤自由党」と呼ばれました。
自由党は長くは続きませんでした。同年7月、海部俊樹元総理を代表とする「自由改革連合」が結成され、自由党はその中に吸収されました。海部はリクルート事件で失脚した竹下登の後継者として総理を務めましたが、党の支配派閥との不和の末に自民党を離れました。その人物が、野党勢力の結集軸となりました。
1994年12月10日、自由改革連合を含む9つの政党・会派が一つにまとまり、「新進党」を結党しました。国会議員214名。結党当時は、戦後日本の歴史において自民党に次ぐ巨大政党でした。初代代表は海部俊樹、幹事長は小沢一郎。目標は明確でした。自民党に対抗できる「第2党」を作り、真の二大政党制を実現すること。
高市は新進党に合流しました。
その選択には論理がありました。1990年代初頭の日本政治の再編は、個々の政党が合従連衡を繰り返す過程でした。どの政党が最終的に自民党の真の対抗馬になるのか、誰にも分かりませんでした。しかし、国会議員を200名以上集めた新進党は、少なくともその可能性が最も高い集団でした。
新進党で高市は政策活動を続けました。税制、経済政策、規制緩和。彼女の関心事は、米国での留学や松下電器での勤務経験から生まれたものでした。通商産業政策、中小企業支援、科学技術投資。これらのテーマで国会質問に立ちました。
1996年10月20日、第41回衆議院議員総選挙が行われました。日本政治のもう一つの分岐点でした。初めて「小選挙区比例代表並立制」が導入された選挙でした。全国を300の小選挙区に分け、11の比例ブロックで200議席を選ぶ方式。1955年以来40年間続いてきた中選挙区制がついに変わりました。
小選挙区制は政治文化を変えます。中選挙区では同じ党の候補者が競い合っていました。自民党の候補者2、3人が一つの選挙区で争わねばならず、派閥や個人組織が選挙の鍵でした。小選挙区では1対1の戦いになります。個人の能力と政党の知名度がより重要になります。
高市は新進党公認で奈良1区に出馬しました。奈良市を中心とした選挙区でした。結果は当選。再選でした。1993年の中選挙区全県区でトップ当選したのに続き、新しい選挙制度の下でも勝利を収めました。
しかし、総選挙が終わった直後から新進党の内部が揺れ始めました。
小沢一郎。新進党の実質的な支配者。強力な党掌握力で有名ですが、同時に反発も大きかった人物です。総選挙の公示日に、小沢が突然18兆円規模の大型減税公約を発表しました。選挙前に新進党の税制調査会が下した結論「大幅な減税は不可能である」を無視し、党首が独断で公約を書き換えたのです。
高市は憤慨しました。党員が党の公式機関で議論し結論を出した政策を、党首一人が選挙直前に覆すこと。これは政党のあるべき姿ではありませんでした。政策ではなく権力が党を支配していました。
再選直後の1996年11月、高市は新進党を離党しました。そして同年12月、自由民主党に入党しました。
政党を3回移るのにかかった時間は3年でした。無所属から始まり、自由党、自由改革連合、新進党を経て、自民党にたどり着きました。批判がないわけではありませんでした。「日和見主義者」「信念なく生き残りだけを追っている」という言葉が投げかけられました。
しかし、高市の論理は違いました。
1990年代の日本の野党政治は、最初から共通の理念ではなく共通の敵を持つ集合体でした。自民党に勝つという目標一つで、多様な性質の政党がまとまっていました。社会民主主義系と自由主義系、そして保守離脱派が一つ屋根の下にいました。その集合体は理念ではなく数学で動き、計算が合わなくなった瞬間に解体されます。
新進党がまさにそうでした。1997年には公明系の議員たちが先に離党しました。創価学会を基盤とする公明勢力が抜けると、新進党の最大の支持基盤が失われました。続いて他の勢力も去っていきました。1997年12月27日、小沢一郎は両院議員総会を開き、新進党の解散と新党結成を宣言しました。新進党は1997年12月31日、自由党など6つの政党に分裂しました。結党からわずか3年後のことでした。
高市はすでにその前に新進党を去り、自民党に入っていました。
自民党という選択。それは敗北ではなく現実認識でした。日本政治で実質的な影響力を行使するためには、結局のところ自民党の中にいなければならないという判断。野党が政権を取る可能性が低い状況で、議会の外で声を張り上げるよりも、政権与党の中で政策を作る方がより実質的であるという認識。
これが正しい判断であったかどうかは、その後の歴史が示しています。2006年の安倍内閣での入閣、2014年の総務大臣就任、2025年の総理大臣就任。そのすべてが自民党の中で成し遂げられました。
しかし1996年12月、自民党への入党届に署名したその瞬間、その未来を知る者は誰もいませんでした。ただ、選択があっただけです。
自民党での最初の選挙は芳しくありませんでした。1998年7月、参議院奈良県選挙区。自民党公認を受けて出馬しましたが、落選しました。奈良県の保守票が一つにまとまりませんでした。自民党という看板はありましたが、まだその中で根を張ることができていない新入党員の限界でした。
彼女は諦めませんでした。2000年の選挙では近畿比例ブロックで返り咲きました。完全な自力当選ではありませんでしたが、国政への復帰でした。そして2002年には、小泉内閣で経済産業副大臣に任命されました。
1993年に無所属で初当選して始まった旅路。自由党、自由改革連合、新進党、自民党。落選と復帰を繰り返しながらも、方向性を見失うことはありませんでした。その方向が何であったかは、彼女がどの政党を去ったかよりも、どの政党でどのような仕事をしたかを見れば分かります。
彼女が新進党を去ったのは、小沢の独断に対する反発からでした。彼女が自民党を選んだのは、政策を実現できる空間を求めてのことでした。政党は道具です。その道具で何ができるかが重要なのです。
その信念は、その後数十年にわたり変わることはありませんでした。
三度の政党移動を経験した高市が、ついに1996年に自民党に落ち着いたのは、単なる政治的計算の結果ではありませんでした。彼女の保守的な価値観 — 強い国防、伝統的な家族構造、歴史への誇り — が、自民党の路線と一致したのです。政党は移りましたが、信念を移したわけではありません。これが、彼女に対する「政治的な日和見主義者」という批判が力を失う理由です。彼女は自分の信念を注げる器を探して移動したのです。そして、その器が自民党でした。
1996年末の自民党入党は、高市の政治人生における決定的な選択でした。それは単なる政党移動ではなく、自分がどのような政治を行いたいかという根本的な問いに対する答えでした。野党から政権を眺めて批判することと、政権与党の中で政策を自ら作ること。その違いを、彼女は3年間の野党生活で身をもって学びました。
小沢一郎に背を向けて新進党を去ったのは、単なる感情的な反発ではありませんでした。それは政治において、過程と手続きがいかに重要であるかという確信に基づいた選択でした。結果が良くても過程が誤っていれば、その結果はいつでも覆り得ます。党の公式な結論を代表が一人で覆すような政党では、政策がいかに優れていても持続性はありません。
自民党での最初の参院選落選は苦いものでしたが、必要な経験でした。新しく入った政党で人脈を築くには時間が必要です。1998年の敗北が2000年の比例復帰へ、そして2002年の初の政務職への任用へとつながる経路を作りました。
参考資料
- 高市早苗 Wikipedia (日本語): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%82%E6%97%A9%E8%8B%97 - 新進党 Wikipedia (日本語): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%80%B2%E5%85%9A - nippon.com — 高市早苗 総裁の椅子までのタイムライン: https://www.nippon.com/ja/japan-data/h02560/ - 日本経済新聞 — 1994年12月10日 新進党が誕生: https://www.nikkei.com/article/DGKDZO36984140T01C11A2KB2000/ - 高市早苗 プロフィール公式サイト: https://www.sanae.gr.jp/profile.html




